• 華珍園について

華珍園の歩み

創業65年、華珍園の歴史を振り返る《創業者 中越一徳》

中国時代から続く、日本との縁

私は1917年(大正6年)、中国の河南省に生まれました。旧名は陳一徳と言います。大連へ出ていた私は、幼少のころから現地の日本人(軍関係)とご縁があり、日本人好みの中華料理も何となくわかっておりました。そんな縁もあって、終戦後間もなく、単身で仕事をするために来日したのです。当初は大阪で通訳として新聞社に勤務していましたが、やがて高知支局への配属が決まりました。


国際新聞時代


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終戦の爪痕残る高知へ


高知城より東方面を望む


一徳と妻の冨士恵

終戦直後の昭和21年10月、高知駅へ降り立った時の記憶は鮮明です。悲しいことに、駅から鏡川のほとりに建つ旅館「臨水」まで、焼け野原で何にもありません。当時の高知は毎日の食糧や物資も大変不足していました。そんな中、翌年には勤務先の新聞社が倒産してしまったのです。私にはすでに、愛する日本人(土佐人)の妻がおり、誕生間近の長女を待ち望んでおりました。高知で多くの友人たちもできたころです。

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高知で創業への決意

私にとって何よりも大切な、愛する家族との生活のため、そして中国人である私を温かく迎えてくれた高知のために、何かできることはないのか?自分はこれからどうすればよいのか?悩みました。当時の食糧は配給制で、決して十分とは言えません。そこで、高知で知り合った中国人シェフ、劉蘭金氏とともに華珍園を創業し、食を通じて高知で生きてゆく決心をいたしました。昭和22年、私が30才の時です。


改装した一号店前にて

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1杯45円


(左) 昭和39年・(右) 昭和44年

創業時のメニューを振り返ってみれば、ラーメン、炒飯、鶏の唐揚げ、八宝菜に酢豚といった、今見ればオーソドックスなものでした。早朝から深夜まで働き、毎日、竹の棒を使って生地を伸ばしては麺を打っていました。


今でもはっきり覚えているのは、ラーメン1杯が45円だったことです。その後、長い年月が過ぎましたが、本当にたくさんのお客さまと仲間たちに支えていただいて、現在に至っていることに感謝の思いが尽きません。


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報恩謝徳



おかげさまで平成15年には別館を全面的にリニューアルいたしました。若いスタッフも増えて、嬉しいことに、世代交替を実感するこのごろです。これからも創業の精神を伝承し、美味しく、心なごめる中華料理づくりに精進し、スタッフ全員による報恩謝徳のおもてなしを、高知の皆さまと地域社会へ提供してまいりたいと願っております。どうぞ今後とも、よろしくお願いいたします。