- blog ~水平思考~
東京兄
1月1日 叔父が他界しました。
このようなことをblogに書くことは不謹慎かもしれませんが、弊社の専務取締役であり本店の歴史を支えてきた叔父、昨日の通夜そして本日の告別式も無事に終わりましたので叔父への感謝の気持ちを書きたいと思います。
叔父の地元は東京で大学時代に叔母と知り合い学校卒業後2年ほどのサラリーマン時代を経て高知にやってきました。東京からきた叔父のことを子供の頃の私たちは、東京からきたお兄ちゃんということでそのまんまなんですが、今日のタイトル「とうきょうにぃ」と呼んでいました。
通夜の時に叔父と叔母、そして私が多分生後10ヶ月頃の話を聞きました。祖父母に連れられて当時学生だった東京の叔母のところに行ったとき、私は叔父に連れられて動物園などで一日中叔父と遊んだそうです。翌日サークルの友人大勢と会った私は友人が遊んでくれようと声をかけても近寄らず、叔父のところにだけスーッと行き、当時友人に付き合っていたことを隠していた叔父と叔母はまさかまさかの私の行動で友人みんなにばれてしまったそうです。もうひとつはわたしの大学入学時推薦入試の論文、多分ほぼ100%叔父と叔母の文章を提出しました。今考えると叔父のおかげで大学に行けたのかもしれません。
時は過ぎわたしが銀行を辞め、家業に戻るという頃からさすがに「とうきょうにぃ」から「至さん」と呼ぶようになりました。家業に戻った当時を思い起こすと叔父へはおおきな二つの感謝の意があります。サラリーマンを5年間つとめ調理の世界に入ることが遅かった私はそれは大きな不安でした。その中で叔父も調理の世界に入ることが少し遅かったんで相談したのですが、叔父から言われたことは「そんなこと考えんでもいい、必ず追いつける、絶対に負けるかという気持ちがあれば大丈夫!」という内容、その言葉でまず不安がふっきれたような記憶があります。いざ戻るとよくある話ですが親子喧嘩の毎日です。日々繰り返される調理場での衝突と考え方の違いと(今となっては父親の言っていたこともわからないわけではないですが…)、一日でも早く調理を憶えないといけないという極度の焦りから私はとうとう叔父のいる店舗へ自ら移ることを決めました。そこでいちから調理を教わったのが叔父でした。今思い起こすとこのふたつのことがなければこの世界でやれたかどうか疑問です。もちろん今は父親とも仲良くやっていますが、本当に当時は叔父に助けてもらいました。
やっぱないもんですね。調理場で叔父と写っている写真はたったこれ一枚でした。
思い返すと叔父の姿を追っていたもう1人の私がいたのかもしれません。調理という世界だけではなく青年会議所や商店街活動などを通じて人脈の多かった叔父、その優しい人柄、叔母との関係…。なりたいと思っただけで全然近づけていません。
一方で経営上叔父にはきついことも言ったこともありましたし悩ませたことも沢山ありました。
10ヶ月の頃からかわいがってもらい、思い返せばことあるごとに助けてもらった叔父。自分が叔父に何ができたのだろうかと悔やまれます、甥っ子として甘え、負担しかかけていなかったのかなと…。
昨年病気がわかったとき叔父からの「会社がこれからというときに迷惑かけてごめん。たのむよ。」という言葉を胸に刻み、たった一枚しかない厨房の中で一緒に写った写真を亡き祖母の写真と共にしっかりと飾らせてもらい、61歳という若さで他界した「とうきょうにぃ」の心を甥っ子という立場、経営者という立場でしっかりと引き継いでいきたいと思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。ほんとうにこれまでありがとう。